コラム「春秋一話」
2025年12月1日 第7329号
『逓信美談集』が伝える奉仕の精神
逓信協会(現通信文化協会)が昭和11(1936)年9月に編んだ『逓信美談集』を繙く機会を得た。4月19日に開催された東海地方郵便局長会の新会員研修会を取材させていただいた際、吉良平治郎の美談を知ったのがきっかけだ。
同書には「責任 わが身を捨てて行嚢を保護した集配手」と題して、吉良の美談に1章が割かれている。
吉良は、北海道釧路市から約15㌔、北に進んだ海岸線にある昆布森郵便局の集配人を務めていた。大正11(1922)年1月19日夜、彼は釧路局を出発し、昆布森局へ向かったが、途中暴風雪に遭い力尽きた。しかし彼は、我が身を捨てて郵便物を守りぬいたのである。
「平治郎が、釧路から約2里をへだてた宿徳内に通ずる坂路にさしかかった頃には、暴風雪はいよいよ烈しくなり、行く手は見えず、荷物は重し、その上襲ってくる飢えと身を切るような寒さに耐えかねて、雪の中によろめき倒れた。しかし郵便物の大切であることを思うと、また勇気を振るって起き上り、わずかに寒さを防いでいたズックの外套を脱いで、郵便物がぬれぬように行嚢を包み、そうして帯を裂いてその上をしっかりとくくった。さらに唯一の力としてたずさえて来た竹の杖を傍に立て、先端に手拭を結んで目じるしとした。それから救助を求めようとして、坂下の人家のある方を指して、深い雪の中を歩き出した。しかしものの一町も進まないうちに、吹雪は全く彼を埋めてしまった」(『高等小学修身書』)
『逓信美談集』には逓信次官を務めていた富安謙次(風生)の序文とともに、15の美談が収められている。そのうちの2つを紹介したい。
1つは「決死の三集配手―死を賭して破橋を渡り責任を完うした津山局の集配手」だ。昭和9(1934)年9月21日早朝、室戸台風による豪雨で、岡山県津山市を流れる吉井川の氾濫警戒情報が出された。この時、津山駅には郵便行嚢が保管されていた。津山郵便局で集配を担当する三浦政治、福田進、秋久繁夫は即座にその行嚢の確保に動いた。津山駅に行くには、吉井川にかかる今津屋橋を渡らなければならなかったが、橋は今にも流されそうな危険な状況にあった。制止する消防隊員に3人は言った。
「公務です。どうしても行かねばならぬのです」
これを聞いた消防隊員は「私たちは郵便局の皆さんが、こんなにまで我々の郵便物を大切にして下さるとは、夢にも考えていませんでした。町の人が聞いたらどんなに感謝することでしょう。津山市民に代わって厚く御礼を申します。では、どうか渡って下さい。我々はここで神に念じてあなたたちが、無事対岸に着くのを見守っていますから」と答えた。
決死の覚悟で今津屋橋を渡り切り、津山駅にたどり着いた3人の努力により、郵便行嚢は無事に確保された。今津屋橋が流されたのはその直後のことだった。
もう1つは、愛媛県宇和島市の三浦半島先端部にある蒋渕郵便局(現宇和海郵便局)の集配人、浅田宇之吉と宮本作一の美談だ。
大正13(1924)年2月3日、浅田と宮本は集配船を漕ぎ、西方約28㌔の日振島に向かった。ところが、その日は天候が悪く、突風が横なぐりに吹きつけて船が転覆、2人は海中に投げ出されてしまった。
しかし、2人は船中に結びつけてあった行嚢を確認、服を脱ぎ棄てて、荒れ狂う波と戦いながら転覆した船をもとに戻した。だが、櫓も舵も流されてしまい、波に身を任せるしかなかった。約3時間後、幸い船は無人島の横島に漂着した。
浅田は郵便物を守るために海に飛び込んで上陸を試みた際、波に飲み込まれて命を失った。それでも宮本は諦めず、行嚢と洋服を結び付けて上陸に成功、郵便物を守り抜いた。
『逓信美談集』には、これ以外にも犠牲奉仕の精神を伝える美談が収められている。残念ながら同書は、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能だが、現物の入手は困難な状況にある。(酒呑童子)
2025年11月17日 第7327・7328合併号
日本語の難しさと繊細な表現
世界には実に様々な言語があり、一説には7000語以上あるそうだ。その一つ一つが独自の文化を持っており、独自の路線で進化してきた。当然、その文法的な仕組みによっても語彙の数からしても、表現できるニュアンスの数は千差万別である。文字数が少なければマスターしやすいし、多ければ使いこなすのが大変になる。
言うまでもなく、世界共通の言語は英語である。なぜ英語なのかといえば、かつての英国(大英帝国)が世界中に植民地を持ち、そこで流通していたことに端を発する。そして英国は経済的にも政治的にも先端を走っていて他国への影響力が強かったうえに、後に急激に発展したアメリカもそのまま英語を使ったためと言われている。
もう一つの理由は、英語は非常にシンプルで分かりやすいという特徴を持っている。アルファベットは26文字しかなく、基本的にこの26文字の組み合わせですべての単語を表現する。そして、その単語を並べてセンテンスを作ると意味が生じる。もちろん様々なルール(文法)がそこにはあるが、このシンプルさが世界を席巻する言語になった大きな理由である。
一方、私たちの言語はどうだろうか。日本語は世界的にも有数の難解な言語とされている。それは文字の種類だけでも漢字・ひらがな・カタカナの3種類あり、それらが組み合わさってセンテンスを作るからである。しかも常用漢字だけで2136文字もある。また数える単位も難しい。物なら「個」、紙なら「枚」、鉛筆なら「本」、本なら「冊」、動物なら「匹」や「頭」などとばらばらである。
一人称や二人称にしても、英語では自分はI、相手はYouしかなく、これは相手が目上でも目下でも関係なく使う。しかし、日本語だと自分のことは「私」「わたくし」「僕」「俺」「自分」など様々であり、相手のことは「あなた」「あんた」「ご自分」「お前」「〇〇さん」と呼び、自分と相手との立場によって変えなければならない。
会社の上司を間違えて「お前」と呼んでしまっては大変なことになる。他にも尊敬語、丁寧語、謙譲語などにも分岐しており、これらを上手く組み合わせないと流暢な日本語にならない。
これだけ日本語が複雑だと、確かに外国人にとってはマスターするのが大変であろう。その意味では日本語が世界の共通語になるとは到底思えない。その代わりこの複雑さが日本独自の繊細な表現を可能にした。人間の微妙な感情の襞を深く表現でき、喜怒哀楽を正確に描写できる。平安時代の文学を見ても、それは顕著である。こうして日本人は日本語によって独自の文化を築いてきたとも言える。
ただ、これだけ難しい日本語にも、ヨーロッパの言語と決定的に違う部分がある。それは日本語には「性」がないことだ。ドイツ語でもフランス語でも、またロシア語、スペイン語、イタリア語にしても名詞には必ず性があり、男性名詞か女性名詞に分けられる。中性名詞というどっちつかずの名詞まである。
名詞に性をつけることの習慣のない私たちにしてみれば、まずその単語が男なのか女なのか、中性なのかを覚えなければならない。ちなみに「日本」はドイツ語では中性名詞であり、フランス語では男性名詞である。おそらくヨーロッパの人たちは名詞を性別に分けることで微妙なニュアンスを表現しているのだろうが、そこは日本人には分からない部分でもある。
こうしてみると、言語というのはその国の歴史的背景を持ち、時代とともに変化しながら独自の文化を作ってきた。日本人は日本語の難しさと引き換えに、優美で繊細な表現方法を手に入れた。たとえ日本語は今後とも世界の共通語にはならなくても、日本人は日本語で作った考え方で、他の言語で作った思考回路の人々と上手く調和していかなければならない。
そう考えると、他国と協調していくには、まずお互いの言語を認め合うことが第一歩のように思う。(有希聡佳)
2025年11月10日 第7326号
郵便バイク電動化の広がりを
遠い昔、まだ郵政省の頃に郵便配達をしていたことがある。最初に採用された時は、原付免許しか持っておらず、ずっと自転車で配達をしていた。配達用の自転車はサドルが鬼のように固く、長時間配達をしていると臀部が痛くなる。雨天時に合羽を着ていても、体も郵便物も濡れる。配達に時間もかかってしまう。
また、郵便物の量が多い時など、自転車のスタンドを立てて止めても、壁に寄りかからせる形で止めても、重さで倒れてしまうことも幾度となくあった。毎日同じようなことの繰り返しで、心が折れそうになり、仕事が嫌にもなった。
3か月半ほどそんな日々が続いていた時、課長代理が私の所属していた班に来て「50㏄の借上車(=原付バイク)が1台入ったけど、〇〇くん(私の名前)原付の免許は持っていたよね?使う(乗る)?」と聞かれた。
確かに原付免許は持っていたが、ほぼ原付バイクに乗ったことが無く、あまりピンとこなかったし、乗り気でもなかった。しかし、班の人たちから「原付バイク使いなよ。絶対そのほうがいいよ」と勧められた。そうして次の日から、原付バイクで配達に出るようになった。
すると、なんということでしょう(大改造!!劇的ビフォーアフターのナレーション風に)!自転車とは比べ物にならないくらい速く、すいすいと進む。もちろん安全に気を付けながらの運転だが、水を得た魚のように生き生きと配達できるようになった。
その頃から配達だけでなく、大区分や道順組立も速くできるようになり、郵便物の量が多かろうが、雨が降ろうが、モチベーションもいい形で保てるようになり、順調に仕事ができるようになった。
そして翌年、合宿免許の形で二輪の免許を取得し、そこからは原付バイクに別れを告げて赤い機動車(郵便バイク)で配達することとなった。ここでまた、自転車から原付バイクになった時のように、原付バイクと郵便バイクとではまたパワーやスピードが違い、さらに仕事量をこなせるようになっていった。
郵便バイクは当時、ヤマハとホンダ、スズキの3種類があり、自分の勤めていた局ではヤマハとホンダが半々くらい、スズキがごく少数あった。
自分なりの印象としては、スズキは軽い乗り心地だが、積載量が多いと発進が遅くなる。ヤマハは無難ではあるが、うんと細い道などでハンドルが引っかかって通れないことがあった。ホンダは一番パワーがある感じで、幅の狭いギリギリの道も通れるハンドル幅だったが、停車している時のエンジン音がクツワムシの鳴き声をデカくした感じで少々うるさかった。
3種類とも乗って実際に配達をしてみた感じとしては、やはりホンダのバイクが色々な面で一番良かった。
さて、日本郵便では2019年度からホンダの電動バイクを導入し、全国で約2万3千台(2025年4月時点)を保有している。私は乗ったことが無いが、この電動バイクはなかなかの優れもののようだ。
音が静かなだけでなく、郵便配達では発進と停止を繰り返すため、モーターによる加速の力強さは大いに役立つ。ガソリンスタンドでの給油の必要もなくなり、自局の駐車場で充電できることに加え、バッテリーも休憩時間中に30~40%充電できるなど、業務にほとんど支障がない。また、低重心設計のため、積載量が多くて停車時に転倒することも少ないという。
災害発生時に、被災地においても支援物資を届けるなど、郵便バイクは大いに役立つ存在となる。電動バイクがさらに普及して、郵便局として配達業務のみならず、さらに地域社会の役に立っていってほしい。(九夏三伏)
2025年11月3日 第7325号
簡易保険の精神を振り返ろう
前島密翁の生誕190年を祝う会が9月27日に新潟県上越市で開催され、前島翁が郵便貯金を創設し、さらに簡易保険導入を目指していたことが称えられた(2面参照)。翁は自叙伝『鴻爪痕』で「私は是(郵便貯金)と同時に生命保険及び養老年金の事も、英国に倣って駅逓局で取扱おうと思って、その規則方法も草案した」と述べている。翁の構想は時期尚早として実現しなかったが、その構想は脈々と受け継がれ、簡易保険が大正5(1916)年10月1日に創業された。
この間、明治14(1881)年7月に日本初の近代的生命保険会社として明治生命保険株式会社が設立され、以後次々と新たな生命保険会社が誕生した。簡易保険創設の障害の1つとなったのが、こうした民間保険会社の反対だった。しかし、「すべての国民が安心して暮らせるように」という翁の思いを継いだ先人たちによって、その障害は乗り越えられた。
簡易保険創業50周年を迎えた昭和41(1966)年、長田裕二郵政事務次官は「明治初年、郵便の父前島密先生がすでにその構想を抱き、その後、明治末期から大正初年にかけて、藤沢利喜太郎、下村宏、松本烝治の諸先輩の熱意と努力が実を結び全国民待望の簡易保険が創始されたのであります」と述べた(『郵政』1966年9月号)。
数学者の藤沢は明治22(1889)年に『生命保険論』を著し、低所得者層が積極的に加入できるように保険金を少額に設定し、国庫負担を規定した公立の生命保険を創設する必要があると説いていた。
藤沢は、明治30(1897)年12月、逓信大臣野村靖から郵便機関を媒介とした郵便保険および郵便年金に関する調査研究を嘱託された。そして郵便年金と郵便生命保険の条項を組み入れた郵便貯金法案を提出する運びとなった。ところが、民間保険会社から強い反対意見が出されて、見送られたのだった。
その後、逓信官僚の下村宏が明治35年にベルギーを訪れ、保険事業についても調査して帰国している。第2次桂内閣は、明治43年7月、下村郵便貯金局長を委員長とする郵便保険年金調査委員会を設置し、調査を進めた。この時期、官業による簡易保険を主張していたのが東京帝国大学教授の松本烝治だった。彼は「簡易保険を国家の特権に属するものとして国家自らこれを営むべし」と説いた(『国家学会雑誌』1910年8月)。
明治44年3月には逓信省内に「郵便保険年金調査委員会」が設置され、さらに調査が進められた。当時、郵便生命保険、郵便年金制度の趣旨は「生涯その職務に勤勉であり、しかも老後の生計を立てる事が難しい者のために、あまねく各地に存在する郵便局を利用し、極めて簡便な方法で、確実に、安価な生命保険と年金を供給することにある」と説明されていた(『逓信協会雑誌』1911年3月)。
この逓信省の動きを後押ししたのが立憲同志会だった。同党は大正2(1913)年9月、「欧米各国で行われている小口保険制度は、中流以下の社会階級の経済状態を維持、改良する上において非常に有効な施設であり、これを国家事業として経営するのが適当と認める」との声明を出した。
そして大正3年4月に発足した大隈内閣は立憲同志会の声明の趣旨を尊重し、小口保険の官営を政府の重要施策に組み入れた。これに対して、民間保険会社は直ちに反対運動を展開した。
しかし、武富時敏逓信大臣は屈しなかった。渋谷作助は「当時民間の保険業者は、政府の民業圧迫なりとして猛然と阻止運動を試み、並々の大臣ならば恐らく腰砕けたであろうと思われる程であったが、君は少しもこれらの運動に動かされないで立案を完成」と書いている(『武富時敏』)。
こうして簡易生命保険法案は大正5年2月に成立した。前島翁の願いが継承された結果であろう。
しかし、郵政民営化によって営利が優先される中で、簡易保険の社会政策としての役割が見失われてしまったとの指摘もある。改めて、簡易保険誕生に尽力した先人たちの精神を振り返る必要があるように思う。(酒呑童子)
2025年10月20日 第7323・7324合併号
生活を守る郵便局のインフラ機能
先日、地方に取材に行った時の話である。取材先は駅からタクシーで15分ほど走った所にあり、車窓からは田んぼや畑しか見えない地方だった。都会育ちで、あまりこうした景色を見慣れておらず、田園風景に見とれていたが、いつともなく運転手との世間話になった。
彼が言うには「ここも含めて日本の国土面積の80%は田舎だが、そういった地方には金融機関が郵便局しかなくなった所が多い。それもだんだん減ってきて、困っている人が増えている」とのことだった。
郵政民営化については、その当時からユニバーサルサービスの存続を危惧する声が、特に地方から上がっていたことは確かである。「採算の取れない地方の郵便局は切り捨てられるのではないか」「郵便局でしかお金をおろせない地域はどうなるのか」など、国民だけでなく自民党内部からも声が上がった。至極もっともな不安である。
それでも当時の小泉内閣は〝郵政解散〟まで強行し、民営化反対議員を造反組として冷遇したあげく法案成立にこぎつけた。こうした政治の世界での話が、今になって地方のタクシー運転手のぼやきになるとは民営化直後は誰も思わなかったに違いない。
しかし現実を見てみると、確かに民営化後18年経って明らかに地方が不便になっているのは間違いないだろう。2025年度上半期だけを見ても、相当数の郵便局が廃止や一時閉鎖になっており、一時閉鎖のあとそのまま廃止になってしまう郵便局も多い。この減少傾向がこのまま続くと、いずれ地方に住んでいる人々の生活に影響が及ぶのではないかと危惧する。
郵便局はいうまでもなく、郵便・貯金・保険といった国民が生活するうえで非常に重要な生活インフラを請け負っている。言ってみれば手紙とお金と死後の保証である。いくらメールやLINEが全盛といっても、手紙や小包の発送・受領は生活に欠かせない。またいくらキャッシュレスの時代になったとはいえ、お金がなければ生活が成り立たない。また、万一死亡したり傷害を負った場合の生活保障に保険は欠かせない。
こうした最低限の生活インフラが、郵便局の廃止や閉鎖によって地方の方々がサービスを受けられなくなるとしたら、ますます地方切り捨てが促進されてしまうことになる。タクシーの運転手が言うように、日本は都会ばかりではない。むしろ大部分がいわゆる「地方」であり「田舎」である。
そこに住む人が郵便局のサービスを受けられない事態になったとしたら、安心して暮らせる状況ではなくなる。郵便局は地域のために「安心・安全に暮らせる」役割を果たしているにもかかわらわず、民営化によって地方にしわ寄せが行ってしまうのでは、郵政民営化とはいったい何だったのだろうかと思わざるを得なくなる。
郵政民営化が喧伝された当時は、民営化してもユニバーサルサービスは全国津々浦々で維持されると吹聴された。この根拠のない主張が結果的に郵政民営化を実現させたといっても過言ではない。しかし現実問題として、毎年郵便局が減少していく状況では、どこかで歯止めをかけないと生活インフラとしての郵便局の存続が困難になる。
地域に密着したエリアマネジメント郵便局や簡易郵便局が無くなった場合、他の何がその地域を支えるというのか。最後の拠り所とも言える郵便局すら撤退する地域では、当然ながら他の金融機関や保険会社はとっくに撤退している。
政治の世界で決められたことだが、やがてタクシー運転手の口からその弊害が漏れるようになった。彼の話を聞いているうちに、見ている田園風景がなんだか暗い景色に見えてきた。(有希聡佳)
2025年10月13日 第7322号
郵便局のいい話、もっと発信しよう!
先日開催された郵便教育セミナーの中で紹介された、「天国から届いたランドセル」というエピソードを、引用も交えて紹介する。すでに知っている人もいるかもしれないが・・・。
幼くして父親を亡くした女の子が小学校に入学する頃のこと。周りの子どもたちはみんな、親から買ってもらった赤いランドセルを背負って通学していた。しかし、その女の子の家庭は幼くして父親を亡くして、母子家庭だったので、ランドセルを買ってもらえるほどの余裕は無かった。
女の子は家に余裕がないことを分かっていたので、ランドセルが欲しくても母親にねだることはしなかった。母親を困らせてしまうと分かっていたから。
しかし、女の子は毎日友達と通学していると、どうしても赤いランドセルが欲しくてたまらなくなってしまう。通学路にあるお店のショーウインドーに飾られている、新品の赤いピカピカのランドセルをいつも眺めていた。
ある時、女の子は考えた。「お母さんに迷惑をかけるわけにはいかないけど、私も赤いランドセルがほしい。そうだ、お父さんにお願いしてみよう。お父さんならきっと、私の願いを叶えてくれるにちがいない」。そう思った女の子は、天国にいるお父さんに手紙を書くことにした。
まだ習いたてのひらがなで、女の子は一生懸命、お父さんに宛ててはがきを書いた。
―てんごくのおとうさんへ。わたしはことし、しょうがくせいになりました。べんきょうもがんばっています。いっぱいがんばっておかあさんをたすけようとおもいます。だから、おとうさんにおねがいがあります。わたしに赤いランドセルをください。いっぱい、いっぱいべんきょうして、がんばるから。いい子にしているから。おねがいします―
天国へのはがきなので、宛名は「てんごくのおとうさんへ」と書いて、ポストに投函した。そのはがきがポストから取集され、郵便局の職員がそのはがきを見つける。小さな女の子が一生懸命に天国のお父さんに宛てて書いた文面。
通常であれば、宛名不完全で差出人に還付されるが、このはがきを手にした職員は、仲間の職員に相談をする。
「このはがき、どうしたらいいかな。還付するのはあまりにも残酷だよね・・・」「それなら、僕らがこの女の子の天国のお父さんになろうよ」「どうやってお父さんになるの?」「仲間みんなにお願いして、ちょっとずつお金を出し合って、女の子にランドセルを買ってあげようよ」
そして、郵便局の職員のみんなで少しずつお金を出し合って、真っ赤なピカピカのランドセルを買うことに。ランドセルを小包に入れて、その郵便局で一番字が上手な人が代表してお父さんからのメッセージを書いて、女の子の家に送った。
―○○ちゃん(女の子の名前)、お手紙ありがとう。お父さん、とってもうれしかったよ。いつも頑張っているのを天国から見ているからね。これからも優しい人になってね。そして、お母さんを助けてあげようね。天国からいつも○○ちゃんのことを応援しているよ。ちょっと遅くなったけど、ランドセルを贈るね―
数日後、女の子のもとに、ランドセルとメッセージの入った小包が届いた。女の子は飛び跳ねるように喜び、「お父さんからランドセルもらった!」とはしゃいでいた。数年後、女の子はこの話を作文に書いて、全国のコンクールで入賞したという。
郵便局における心温まるエピソード、全国でたくさんあると思う。当事者にとってはそんな大したことではない、と思うかもしれないが、どんどん発信してほしい。郵便局の明るい未来のためにも。(九夏三伏)
2025年10月06日 第7321号
郵政民営化の検証を
小泉純一郎政権下で郵政民営化法が成立してから間もなく20年が経つ。
『日本経済新聞』の社説(9月27日)は「危機の今こそ20年前の原点に立ち戻るときだ」と書いている。「民営化は正しかった」という前提で主張を展開しているようだが、「郵便・金融一体」の収益構造を壊す分社化という制度設計自体が間違っていたとの意見もある。
現在も自民党内には再公営化を唱える議員もいるし、再公営化を主張する政党もある。
まず民営化によってもたらされた弊害についての議論が必要なのではなかろうか。
民営化後、過疎地など収益性の低い地方で郵便局の再編やサービス縮小が進められた結果、利用者の利便性は低下した。昨年10月には郵便料金が30年ぶりに大幅に値上げされた。土曜配達、24時間窓口などのサービスが廃止され、不便を感じている利用者も少なくない。また、コスト削減のために非正規雇用の増加や人員削減が進み、サービスの低下を招いているとの指摘もある。
鹿児島大学の吉田健一准教授は、郵政の不祥事について「郵政民営化自体に不祥事の原因があると思う」と述べ、人手不足が深刻化する中で、数字の達成を厳しく求められ、郵便局社員が非常に追い詰められていると指摘している(本誌6月2日号)。また、尾林芳匡弁護士は、民営化による経営効率化のしわ寄せが労働者にのしかかり、郵便局社員の過労死、過労自死を引き起こしていると指摘している。民営化法成立20年を迎える今、民営化について徹底した検証をすべきではないか。
小泉政権は財政投融資改革が必要だと訴えて、民営化を主張していた。しかし、大蔵省(現財務省)出身の松田学参議院議員は、すでに2001年度の財政投融資改革によって問題は解決していたので、民営化当時、財政投融資改革の必要はなかったと明かしている。
民営化をめぐっては、かんぽの宿のオリックス不動産への売却決定などの問題も起こった。
いったい誰のための郵政民営化だったのだろうか。アメリカの金融業界の意向に沿ったものだったのか。郵政民営化準備室は2004年4月から1年強の時間をかけて法案を作成したが、その間に米国保険業界関係者などと17回もの会合を重ねていたともいう。
民営化法には、日本郵政が保有している郵貯・簡保の株式を2017年までにすべて売却すると書き込まれた。そのため、ゆうちょ銀行とかんぽ生命が外資に買収される危機を警戒する声もあった。
2009年の総選挙で民主党政権が誕生し、同年12月に郵政株売却凍結法案が成立し、12年の民営化法改正で、17年までの株式売却が「できる限り早期に」と改められ、いったん買収の危機は去った。
6月に自民党、公明党、国民民主党の3党共同の議員立法で提出され、継続審議となっている民営化法改正案は、この「できる限り早期に」の文言を削除し、日本郵政に「当分の間」、ゆうちょ銀行・かんぽ生命の株式の1/3超の保有を義務付けるとしている。
20年前の想定を上回るスピードで人口減少が進み、少子高齢化、過疎化が深刻な問題となっている。過疎化が進む地域では支所・出張所、金融機関、医療機関などの撤退により、住民が生活に不可欠なサービスを受けられない状況に陥っている。まさに「地域の最後の砦」として、郵便局への期待が高まっているのだ。
このような状況への対応が急がれるからこそ、改正案は郵便局ネットワークを活用し、地域住民の生活を支援するために、公共サービスその他の地域住民が日常生活、社会生活を営む基盤となるサービスを、日本郵便の本来業務と位置づけた。
当初、自民党の改正案には3事業の一体性維持を目的とした「日本郵政と日本郵便の合併」が盛り込まれていたが、合併については、施行後2年を目途として、政府が積極的に検討することを附則に盛り込むことになった。
まもなく招集される臨時国会で、すみやかに改正案を成立させてほしい。(酒呑童子)
2025年09月29日 第7320号
年賀はがき~日本人と縁起~
来年(令和8年)用の年賀はがきの概要が発表になった。毎年8月の暑い盛りに年賀の発表になり、いささか気の早い話のようだが、新しいデザインやさまざまな仕掛けが毎年行われ興味深い。昨年は純金の年賀はがきが発売され、一部の富裕層に好評だったようだ。もちろん飾り用で、実際に年賀状として差し出すものではない。そして今年は静岡県の大井川鐡道とコラボし、縁起を担いだ新たな施策が発表された。静岡県内に「合格」と「門出」という縁起のいい名前の駅があり、受験生の合格を祈願した年賀キットを発売することになった。それぞれの駅の入場券と、合格駅から門出駅までの片道乗車券が台紙にセットされており、合格祈願のお守りも付いている。また添付の年賀はがきに受験生が願い事を記入して差し出すと、合格駅に配達されるというものだ。
昨年の「黄金年賀」にしろ、今年の「合格・門出」にしても、明るい年になるよう縁起を担いだものだが、郵便局が年の初めに明るい未来を象徴するものを提供するのはいかにも日本的で面白い。絵入りはがき(全国版)のデザインに使われた「左馬」もしかりである。馬を逆から読むと「まう」になり、これは「舞う」に通じておめでたい意味になる。また普通、馬は人が引くが、左馬にすると逆に馬が人を引く意味になり、これは「人を招く」つまり商売繁盛を意味する。こうした日本人の縁起を呼び込もうとする思いは、おそらく他国以上に強いように思う。お正月の風習が年々薄くなってきているのは事実だが、初詣に出かける人の数は一向に減らない。減らないどころか増加傾向にある。年賀状の差出しは減少しているが、年の初めに願掛けする風習はおそらく正月の行事の中でも最後まで残るであろう。それだけ日本人は祈りを大事にしている証拠だと思う。
この縁起を担ぐ風習は昔から日本人の心に根差していた。平安時代は「物忌み」や「方違え」などという風習があり、穢れがあるとされる日は一日中家にこもって外出しなかったり、縁起が悪い方向には行かず遠回りするなどしていた。方違えなどは地方によっては比較的最近まで実行されていたようで、外国人には謎の行動だったそうだ。日本人が「今日はこの方向は縁起が悪いから、こっちから遠回りして行く」と言っても外国人には理解されず、「なにゆえに縁起が悪いのか」となる。「そっちの方向に行くと、誰か悪人でもいるのか?」と思われる。縁起というのはそもそも根拠がなく、そういうしきたりなのだから仕方がない。しかし日本人にとってはそれを守ることで、心の整理が着き、納得して次の行動に出られる。
正月に縁起を大切にする習慣は日本人独特のものだろうが、逆にそれをすることによって皆が新たな気持ちで新年を迎えることができる。12月31日といった年の瀬が終わるとともに新しい扉が開いて1から再スタートするすがすがしさもそこにあるように思う。根拠などなくても、それをしないとどこか落ち着かない。元旦というのは、気持ちの整理や区切りをつけて新たな気持ちになる貴重な日なのかもしれない。そして年賀はがきもそれを演出するひとつの手段かもしれない。
次の正月は「合格駅」と「門出駅」が縁起担ぎの役割を担った。受験生は当然受験に合格して新たな門出を迎えたいだろうが、我々一般人にしても、「門出」には興味をそそられる。受験生でなくても縁起を担いで、新たな1年の門出を祝いたい。次の1年がどんな門出になり、どんなことが起きるのか。まだ残暑が残る日々だが、「受験生応援年賀キット」の写真を見ながら、次の自分自身の1年を想像してみた。(有希聡佳)
2025年09月15日 第7318・7319合併号
待ったなしの地球温暖化対策
この数年で急激に地球の気温が上昇した。日本では各所で過去最高の気温を記録した。インドでは50度に達した場所もあり、中国ではスーパーで購入した卵を室内に放置していたらひよこが孵化したという。
これだけ世界中で異常気象が続くと、地球そのものが異変をきたしたのではないかと思えてくる。そこで地球物理学の資料などに目を向けると、確かにいくつか異変が起きているようだ。
ひとつは地球の自転速度の変化である。地球は24時間かけて一回転し、365日かけて太陽の周りを一周するが、その自転速度が微妙に変化しているという。
そもそもなぜ地球が自転するのか。一般的に物が動くということは、外部から何かの力が作用しているからであるが、宇宙空間に浮かんでいる地球には外からの力はかかっていない。
結論から言うと、その動力源は「慣性」である。太古の昔に多数の小惑星が衝突しながらやがて球体の惑星(原始地球)ができていき、その衝突する衝撃で回転し始めたのが最初である。
そして、宇宙空間は無重力で抵抗がないため、今の地球の姿になってもそのまま回転を続けている。つまり地球誕生時の衝撃による回転がそのまま今でも続いているということで、それがたまたま一回転するのが現状24時間ということである。
ところが、最近の研究で、必ずしも地球が永遠に同じスピードで回転し続けるわけではないことが分かってきた。いくら宇宙空間が真空で抵抗がないとはいえ、長大な時間をかけながら回転する時間は少しずつ遅くなっているそうだ。
そもそも24時間というのも、原始地球の時代から24時間だったわけではない。計算によると約4億3千万年前は自転が速く、1日は21時間だったそうだ。
それが約7千万年前の恐竜時代になると23時間30分で1回転となり、現代ではそれが24時間になった。1日が長くなれば当然地球が太陽光を浴びる時間も長くなる。それが地球温暖化の一因ではないかとも議論された。
しかし、この自転速度の変化はあまり懸念する必要はないらしい。なぜなら観測によると、過去100年で1日が約0.5~0.6㍉秒長くなっているに過ぎないからである。
1㍉秒は千分の1秒であるから、100年で2千分の1秒くらいしか自転が遅くなっていない計算になる。これだけの変化しかなければ、当然人間の感覚では全くわからないし、温暖化の原因とも考えにくい。
では、何が原因となっているのか。それには様々な要因が重なっているようだが、大きな原因は温室効果ガスの排出量が各段に増大したことだそうだ。自動車や工場から排出されるCO2や空調設備から放出されるガスなどが地球を覆ってしまい、熱が逃げられなくなっている。
そのため海面温度も上昇し、さらに温暖化に拍車をかける負のスパイラルに陥っている。中国やインドなど過去数十年で急激に経済活動が活発になった国の影響も大きい。この温室効果ガスの排出量増加に高気圧が重なったのが、一番大きな原因のようだ。
今年の日本の現状を見ると、最高記録である41.8度に達した場所もある。約42度というのは体温を超えたどころではない。人間が42度の発熱をすればほぼ命がない。大気がそれだけの高温になること自体、地球が異常な状態に陥っている証拠であり、これは全世界で対策を講じなければならない。
この状態をほうっておけば、氷河は大量に溶け出して海面が上昇し、各地でさらにゲリラ豪雨や洪水、川の氾濫が起きる。暑さ自体で人も熱中症で多数が命を失う。農作物は暑すぎて育たず、食料不足にもなる。地球の自転が人力ではどうにもならなくても、地球温暖化は人類の知恵でまだどうにかなるであろう。
もはや近年の異常な暑さ対策を先延ばしすることは許されない、待ったなしの状況に地球が陥っているように思う。この全世界共通の問題に対し、世界は手を携え対応していかなければならない。(有希聡佳)
2025年09月08日 第7317号
暑い夏 扇子で心地よい風を
8月5日に群馬県伊勢崎市で観測史上1位となる最高気温41.8を記録するなど、今年も全国的に猛暑に見舞われている。そうした中、暑さ対策として近年、街中でよく、ハンディファン(ハンディ扇風機、携帯扇風機、手持ち扇風機など)を持って風を浴びている人の姿を見かけることが多くなった。
ハンディファンはデザインも様々で、ネックストラップがついたもの、折りたたみ可能なもの、さらには冷却プレート付きのものまである。
私自身は持ったことも使ったこともないが、初めて見たとき、こんな小さな気休め程度のもので涼しいのかと、疑問に思った。しかし、使っている人に感想を聞くと、小さいけど結構パワーがあって涼しいよ、と言っていた。
そのハンディファンだが、便利である反面、ニュースで怖い一面も報じられている。
構造上、リチウムイオンバッテリーが内蔵されているタイプのものに多いが、突然爆発するという事故が発生している。充電中に起こるケースもあれば、首からストラップで下げて歩いているときに突然爆発するというケースもある。
リチウムイオンバッテリーは充電することによって繰り返し使えるので便利だが、その一方で衝撃や高温、水濡れに弱いこともあり、発火や破裂によって大きな事故やケガにもつながりかねない。普通にハンディファンを使用して風を浴びていて、突然爆発したら怖いなと思う。
爆発が起こる前兆として、ハンディファン本体が異常に熱くなっていたり、バッテリー部分やバッテリーそのものが膨らんでいたり、焦げ臭いにおいがしたりすることがあるという。でも実際、普段から注意深く見ていないと気付かないことの方が多いだろう。
また、高温多湿の環境下で、体の表面に風を当てることで、逆に体内に熱がこもりやすくなり、熱中症など体調不良に陥る原因ともなる。外気温が高い場所でハンディファンを使用して、ハンディファンからの風が熱風だと感じる時は、使用を控えるか、または濡れたタオル等と併用するとよいという。これに関しては、使い方や場所、使うタイミング次第で対応できるものかなと思う。
さらに、顔に風が当たるように使用する人が多いが、このことによってドライアイになるリスクを高めるという。
ドライアイとは、様々な要因によって眼の表面に存在する涙が減少してしまい、目の表面に傷ができるなどのほか、心身の不調、眼の不快感や痛み、さらには視力の低下を招いてしまうこともあるという。失明につながることはほとんどないと言うが、生活の質が下がることも多く、決して看過できない。ハンディファンの風が直接目に断続的に当たらないよう、注意が必要だ。
ハンディファンのデメリット部分を記したが、要は便利なものであっても、使う人が正しい使い方を守ること、製造・販売する側は間違った使い方の具体例や使用時の注意事項などを、しっかりと分かるように伝えることが大切だ。
もう1つ、初めてハンディファンを見たときに思ったことがある。「団扇や扇子で仰ぐことすら面倒くさくなったのか」と。
団扇は基本的に折りたためないのでかさばり、持ち歩くと邪魔になるケースもあるが、扇子は折りたたむとコンパクトになり、持ち運びにも便利だ。なので自分は扇子を愛用している。力を入れて仰がなくても、心地よい風を感じられるので、腕が疲れるという感じはしない。
手紙は面倒なのでメールやSNSを利用するという人へ手紙の良さを伝えるように、扇子は安全で手軽に涼が取れる良いアイテムだよと伝えたい。(九夏三伏)
